クリエイティブ・ミュージック・フェスティバルのこと
若尾 裕
(人間表現専攻 人間表現論講座)
毎年8月に、私は新しい音楽の追究を主眼とした、参加者数30名の小さな音楽祭を主宰して行っている。始まりは、前任の大学のときに卒業生や個人的なつながりがある人たちだけで集まって、3日間ほどどこか山のなかででも泊まって、好き勝手にみんなで音楽をやろうというぐらいのつもりで始めたものだが、続けているうちに私と個人的なつながりのあるアーティストをゲストとして呼ぶようになり、そのワークショップが中心のプログラムとなっていった。今年でもう11回目となったのだが、根気のない私としてはよく続いていると自分でも感心する。
いままでに来てもらった主な講師は、ヴォーカル・パフォーマーの巻上公一さん、音楽家の大友良英さん、サックス奏者のウルス・ライムグルーバーさん、ベース奏者のジョエル・レアンドルさん、作曲家のトレヴァー・ウィシャートさん、ダンサーの堀川久子さんなど、みな世界的に一流のアーティストばかりである。
このフェスティバルの原型となったのは、カナダのニューファウンドランドで行われているサウンド・シンポジウムという音楽祭である。昔参加して、そのカナダ的ゆるさとのびやかさ、それに田舎町ののどかさがとても気に入り、こんなのを日本でもやってみたいと思ったのである。
講師と3日間、ずっといっしょにいるので、何か話したかったり、教わったりしたければ、ゆっくり時間を過ごせるのも、この音楽祭の一つの特色で、これも外国のフェスティバルから学んだものだ。
何か新しい芸術のあり方は探せないものかと思ってきたのが、この音楽祭を続けている大きな動機の一つなのだが、新しい芸術表現活動を体験することによる人間性の回復の場といった姿に、何だか少しずつ落ち着き始めてきているような気がする。帰ってからも何日間かは精神的にハイの状態が続いたことを知らせてくれた人が何人かいたが、なんだかそれは感受性訓練かエンカウンター・グループの終わった後みたいな感じを思わせる。だが、力のあるアーティストのワークショップは、もう心理療法家などはまったくの敵ではない強度を持っている。修羅場をくぐったアーティストの表現性こそ、人々をほんとうに非日常に導くものすごいパワーを持っているのだ。そして、そのようなことばかりを集中して行った夢のような3日間の後、参加者は目を半分覚ましながらそれぞれの日常に帰って行く。
いまのところまだ続ける予定だが、私はこれを、こういった強力エンカウンター・グループに落ち着いてしまわぬように、いつも新しい試みを導入したいと思っている。精神衛生のためにやっているのではなく (もちろん結果としては構わないのだが)、やっぱり新たな芸術のあり方を考える場にしたいから。
それにしても、もう芸術活動は、専門家がすることを端から見て楽しむ時代は過ぎつつあるように思える。やりたいひとが自分でやりたいことをする時代に入ってきている。芸術の専門家も、人前で何かやったり、特別な作品を作ったりするだけの役割だったのが、人が、何かやったり、作ったりするのをファシリテイトする役割も相当強くなってきている。そういった活動そのものが、自身の芸術活動の一部となっている芸術家も出現している。西洋の芸術は、作品や結果を通して何かを鑑賞者に伝えるという芸術家と観衆を対置した考えだったが、教育的活動を通して人々の体験のなかに何かをもたらすことが、次代の芸術活動の形に変わっていくことはなんら不思議なことはないだろうと私は考えている。
Updated: 2009/09/17 (Thu) 10:02